前回のあらすじ
線香Aには白檀の香り分子(=サンタロール)が検出されて、
線香aからは検出されなかったことから、線香aは他の合成香料を使用して、
白檀様に製品設計されていることがわかりました。
解析を進めていくと、バグダノールという香り成分が検出されて、それは白檀様の合成香料であることがわかりました。
またバグダノールとサンダロアの比較から、二重結合の有無によって、香りや機能性に違いがでることがわかり、合成香料の機能の拡張性に関して知ることもできました。
今回も解析を進めていきます。
各線香の香り分子分析
線香aから検出された成分の内、次は#dを見ていきます(データ1)。
解析の結果、ガラクソリドという成分であることがわかりました(表1_#d)。
ガラクソリドはムスクに似た香り(=ムスク様)がする合成香料と言われていますので、それを知るにはムスクを理解することが重要となります。
ムスクはジャコウジカ由来の香料なので、まずはそれについてご説明いたします。
ムスクとジャコウジカ
※1引用元 https://coloria.jp/magazine/articles/rxJUw
ジャコウジカ(写真1)はヒマラヤ山脈や、チベットや四川省など、主に東アジアから南アジアにかけての国々とシベリアに生息しており、その腹部にある香嚢(コウノウ)(写真2)からムスクが分泌されます。
この香りはアンモニアのような獣臭なのですが、乾燥後のムスクをエタノールなどに少量だけ添加して希釈すると、良い香りを放つとされているので、不思議な香料です。
他にも面白い性質があり、香りに広がりをもたせて(拡散性)、長く持続させる性質(持続性)があるようです。
この性質は、発情期にメスを引き付ける際に活かされているようです。またその性質から、媚薬効果もあるとかないとかネット上で情報が散見されますが、まだはっきりとはわかっていないようです。
一頭から取れるムスクはわずかな量なので高級品として取引され、女王クレオパトラも愛用していたなど、その魅力的な香りから、古くから人気の高い香料として使用されてきました。
そして時代が経つにつれて、乱獲によってジャコウジカの数が減少し、絶滅の危機に瀕していきました。
現在では天然のムスクはCITESにより取引が規制されており、ほとんど入手できなくなっているとの情報がネットで散見されました。
このことからすると、天然ムスクを使用した香水は今は販売されていないということでしょうか。
気になったので、まずはCITESの附属書を確認することから始めました。
CITES
CITESの正式名称は「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約=Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora」で、ワシントン条約とも呼ばれています。
この条約の目的は、野生動植物の一定の種が過度に国際取引に利用されることのないようこれらの種を保護することとされています。
ジャコウジカの規制に関してCITESの附属書※3を基に整理してみました(表2)。
附属書には規制内容が区別されており、附属書Ⅰが最も厳しく、
附属書Ⅱ、Ⅲの順に緩い規制となっていきます。
この内容からすると、附属書Ⅰに記された産地のジャコウジカは商業目的での輸入はできないので、このムスクが使用された香水は販売されていないこととなります。
しかし、附属書Ⅱに記された産地のジャコウジカは許可書があれば輸入が可能なので、このムスクが含まれている香水は探せばあるかもしれません。
天然ムスク配合の香水を調査
数店舗の現地調査を実施しました。
図1は、ある店舗の香水の配合ですが、「ホワイトムスク」と「カシミアムスク」はムスク様の合成香料(=合成ムスク)に属しています。
香水Xには「ムスク」と表記されていたので、「もしかして!」と期待が膨らみましたが、店員さんに確認していただくとこれも合成ムスクでした、、、
天然ムスクを含む香水を扱っていない理由としては、動物保護団体というキーワードが話にあがったので、絶滅危惧種を商業目的で利用することが厳しい時代になったのだなとつくづく思いました。
結局、天然ムスクが使用された香水を見つけることができず、香りを体験することができませんでした。
その香りはいったいどのようなものなのでしょうか。
書籍によれば、少量添加すると、香りに「酷(コク)」「幅」「女らしさ」「セクシーさ」「温かさ」(※5)が与えられるとされていますが、抽象的な表現で謎が深まるばかりです。
そこで、もう一つの方法として化学構造から類推してみたいと思います。
※5 参考書籍「調香師の手帖」
ムスクの香り
ムスクの主成分はムスコン(図2-1)です。
大環状化合物で、官能基として環内にケトン基を持ちます(青〇)。
比較として、同様の官能基を持つ香り分子を調査してみると、ジヒドロジャスモン(図2-2)がありました。こちらはフルーティーでジャスミンのような甘い香りを持つと言われています。
ジャスミンは濃厚で甘美な香りが特徴のようですが、動物的な香りも混じっているようなので、この香りとムスクは一部共通していることがわかります。
他に魅力的な点として、香りの持続性なので、これらの分子を例に考えてみたいと思います。
各香り分子の特徴
まずは各香り分子の特徴を官能基であるケトン基と分子量の点から探ります。
図3-3)ムスコン(左)とジヒドロジャスモン(右)の重さ測定
①ケトン基
電気陰性度の差によって、
ケトン基の酸素は負の電荷、
炭素は正の電荷に帯電します(図3-1 青●)。
ジヒドロジャスモンの場合、側鎖メチル基による超共役(赤〇)、二重結合に存在する電子の共役(赤→)によって、ケトン基の炭素の正電荷が中和されて、その電荷が弱くなります(図3-2 青●) 。
これによって、ジヒドロジャスモンはケトン基の分極が小さく、
ムスコンの方は分極が大きくなるでしょう。
②分子量
ムスコンの方が炭素数が多い分、分子量が大きくなり、重いことがわかります(図3-3)
これらの違いが香りの持続性、言い換えると揮発性の違いに関わりますので、次にご説明します。
香り分子の揮発性
揮発性の違いは沸点を確認するとおおよその判断が可能です(表3)。ムスコンの方が約2倍も高沸点ですが、その理由は前項の内容をふまえると、以下の2点が考えられます。
①分子同士の吸着が強いこと
②重いこと
①については、ムスコンの方がケトン基の分極が大きいので双極子–双極子相互作用が強く働き、さらに炭素数の多さから分子間力が増大すると考えられます。
次に揮発のイメージを示しました(図4)。
加温していくと分子が揺らいで、分子間の吸着がなくなっていく状態がジヒドロジャスモンの方で著しいと想定されます。
さらに軽さも要因となり、ジヒドロジャスモンの方が低温で揮発していくこととなります。
一方、ムスコンは分子間が吸着した状態が続き、重いことも要因となって揮発がしにくくなり、香りが長く持続することとなるでしょう。
ジャコウジカの気持ちになってみた
今回はジャコウジカ由来の香料をご紹介しましたが、
いかがでしたでしょうか。
これまでの話を振り返ると、
ムスクにはメスを引き付ける力がありますが、同時に、人間にとっても魅力的な存在です。人間がムスクを求めてジャコウジカを捕えたことで、ジャコウジカの数が減少していきました。
おそらくジャコウジカにとっては想定外でしたでしょう。
メスを引き付けたかったのに、
人間を引き付けてしまったとジャコウジカは嘆いているかもしれませんね。
野生生物の過度な利用を人間が行ってきた過去がありますが、
その人間によって作られたCITESで、それらを保護することができるようになりました。
ある生物種が減るのも増えるのも人間の行い次第であることがわかります。
このルールができて、ジャコウジカはホッと安心しているのかもしれませんね。
これからの時代は、SDGsの取り組みが進むことで、絶滅危惧種に対する保全の意識がますます高まっていくので、天然ムスクの使用はさらに厳しくなっていくでしょう。
そして人口増加に伴い、天然ムスクの代用となる合成ムスクの需要が増すことが想定されます。
次回のITES技術者ブログはその一種であるガラクソリドをご説明します。お楽しみに!